Published 〜メディア掲載情報〜

ローバー都市建築事務所の設計物件や、弊社代表の野村正樹が執筆するコラムなど、
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毎日新聞 2017年03月10日号

毎日新聞 2017年03月10日号
 

きょうと空間創生術 [249]

「道仙化学製陶所の登り窯跡」

毎日新聞 2017年03月10日号 先日、京都市東山区清水五条坂にある「旧・道仙化学製陶所窯跡」を訪れる機会に恵まれた。五条通り北側に位置する京町家、京焼・清水焼店舗「楽只苑」。西側にある風情のある路地を進んでいくと、その突き当たりに、大きなれんが造りの6段式登り窯跡が現れる=写真。

 この登り窯は、初代の入江道仙が寛政年間(1789〜1801)に五条坂で陶磁器の製造をはじめたのがその起こりと伝えられている。その後、明治時代になると大阪造幣局の「るつぼ」など、理化学用陶磁器の製造が主として行われるようになり、1962(昭和37)年まで実際に製造が行われていた。

 理化学陶器とは、工業薬品分野において主に使用される、瓶・蒸発皿・乳鉢などの実験用陶器であり、清水焼の技法を生かしたその技術と精度の高さは、当時、世界でもトップクラスであったといわれている。その技術は、その後ガイシや陶歯といった分野にも応用され、清水焼の近代化は、後の村田製作所や京セラといった京都を代表する会社を育む土壌ともなっている。

 現在、「楽只苑」の店舗となっている京町家は、かつては入江道仙の居宅兼事務所であったといわれており、広い間口と重厚なその造りは往時の面影を色濃く残している。表通りの五条通から路地を介して、職人長屋・工房空間・登り窯と、表家造りにも似た美しいシークエンスを形成している点は大変興味深い。また、この入江道仙窯は北側に行くほど傾斜が高くとられ、登っていく構造となっているが、東に並行して隣接する浅見五郎助窯については、全く逆方向に傾斜しており、互いに交差する形となっている。

 大量の煙を発生することから、1971(昭和46)年に制定された府公害防止条例によって、登り窯の歴史は一旦途絶えることとなるが、その貴重な歴史と物語にふれることのできたすてきなひとときであった。

 
(株)ローバー都市建築事務所


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