毎日新聞 2014年02月07日号


きょうと空間創生術きょうと空間創生術
 

岩上神社と岩神座きょうと空間創生術

  石畳の風景が美しい、京都市上京区西陣・大黒町かいわい=写真。浄福寺上立売付近一帯のこの敷地には、かつて「岩神座」という芝居小屋が明治・大正期には建造されてい た。元々江戸時代には、「有乳山 岩上寺」という寺院の境内地であったこの場所は、享保15(1730)年の「西陣焼け」・天明8(1788)年の「天明の大火」の二度におよぶ大火で焼失し、明治維新に行われた廃仏毀釈(きしゃく)によって廃寺となった場所である。

  その後、明治時代になって、「岩神座」が岩上寺跡地に建設され、明治時代の終わりには、旅回りの歌舞伎役者が興行するなど賑わい、新派演劇の拠点として京都の人々に親しまれていたそうである。「岩神座」は南座にも劣らない大き な芝居小屋であり、1500人規模の京都府民決起集会が開催さ れていたとの記録もある。当時、この小屋を所有していたのが、松竹の創業者・大谷竹次郎であり、そういった意味においてはこの地は、松竹発祥の地ともいえる場所である。室町の旦那衆が、南座・祇園街を遊興の場所としていたのに対し、この岩神座・上七軒は西陣の旦那衆によって近世、発展を遂げてきたのである。その後、大正6(1917)年に織物業を営む「千切屋」の敷地となり、現在は帯製造会社「渡文」の所有となっている。

 平成の今も、敷地内には「岩神座」の名付け親となった「岩上神社」が祭られている。高さ2メートル近い大きな霊石だけは時を経ても変わることなく昔の姿をそのまま今に伝えている。寺院から芝居小屋・織物工場へと、時代の移り変わりを、じっと見守り続けてきた「岩神さま」。岩神座の敷地跡地にたたずむ度に、そん な不思議な歴史ロマンを思い出すのである。

Publishedへ