毎日新聞 2009年10月23日号


きょうと空間創生術きょうと空間創生術
 

滋野井と蛤御門の変きょうと空間創生術

府庁前にあり、元滋野中学校のある地域一帯は、平安初期に滋野貞主という公卿(くげ)が住んでいた邸宅の跡地である。その邸宅は40丈(約120メートル)四方にもおよび、東西は西洞院と油小路、南北は椹木町と下立売までわたる約4300坪の広大な邸宅であったといわれている。

邸内には、王朝の頃より「京洛七名水」に数えられてきた「滋野井」があり、以来、昭和50年代までは、約1200年間悠久の時を超えて、豊かな水をたたえてきた。

そして、その「滋野井」を現在もなお大切に受け継いでいるのが、西洞院椹木町にある、生麩(なまふ)の老舗「麩嘉」である(=写真)。麩作りは、良質な井戸水を多量に必要とする家業でもあり、現在の井戸は「滋野井」を更に40メートル掘り下げて地下60メートルの水脈より取水を行っているということである。

築145年、間口7間の立派な京町家は、千本格子の居住部分(写真右側)と麩屋格子と正面玄関からなる工場エリア(写真左側)がうまく融合した職住一体の空間構成。上部にみえる、煙抜きのための越屋根からは薪を焚きながら、麩作りを行っていた当時の姿を伺い知ることができる。

ご存じの方も多いと思うが、御所西地域は俗に言う蛤御門(はまぐりごもん)の変(禁門の変)の激戦地だった。江戸時代末期の1864(元治元)年、長州軍と幕府軍が交戦し、辺り一帯は焼け野原となった地域である。「麩嘉」はすぐに再建されることになるのであるが、麩屋格子の土台部分には、戦火で焼けた御影石が礎石として今も大切に使用されている。

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