毎日新聞 2007年10月12日号


 
「産寧坂と明保野亭」
  東山清水寺にある、産寧坂は、別名を「三年坂」ともいい、清水寺の参道である清水坂から分かれて北へ降りる46段の石段道を指す。広義には、その北にある二年坂までの緩い石畳の坂道も含まれるのであるが、その起源は、宝亀9年(778年)の清水寺創建時にまでさかのぼり、1200年の歴史を持つと言われている。平安時代には、既に石畳ができていたようであり、清水寺への参拝路として年中、賑わいをみせていた。その、由来には諸説あるが、清水寺の奥にある子安観音へ安産を寧じて通った参詣道がその由来だという説もある。また、「三年坂で転ぶと三年で死ぬ」という言い伝えも子供の頃、よく聞かされた話である。確かに、歩いてみると結構な急勾配であり、雨の日などは転んでしまいそうな感じである。

 そんな産寧坂の中腹にある、料亭「明保野亭」。産寧坂伝統的建造物群保存地区のなかにあって、ひときわ目を引く建造物である。昭和51年に、国の文化財保護法に基づき制定された、通称「伝建地区」と呼ばれる伝統的建造物群保存地区。風致地区より規制が厳しいこの地域においては、建造物のデザインについて細かく規定されている。その類型をみても「むしこ造り」「町家土間店舗」「変形町家飾窓付店舗」等14類型にも分類され、門・塀・垣についても細かい基準が設けられている。だが、ここで、先日施行された新景観条例との関連を考えたとき、一つの拠り所がここにあるといえるのではないだろうか。未来の京都を考えるときにあたり、過去の叡智に学ぶべき部分は多いと思うのである。

料亭「明保野亭」は幕末には倒幕の志士による集会にも多く利用されており、坂本竜馬の常宿の1つであったといわれている。土佐藩家老息女・田鶴と竜馬が密会した場所としても有名である。しかしながら、竜馬とは身分違いのため、悲恋に終わることとなる。そんな逢瀬を重ねる幕末のロマンに思いを馳せながら、46段の石段を歩いてみるのも京都再発見の楽しみではなかろうか。




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