毎日新聞 2007年09月07日号 |
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「京町家と床下防空壕」![]() 床下防空壕は、主に昭和17年以降に建造され、空襲警報がなるとその中に逃げ込み、焼夷弾や爆風から身を守ったという。町家の外には、防火用水やバケツ・砂袋がおかれ、窓ガラスには紙テープがびっしりと貼られた、現在の町家外観からは想像もできない姿であったそう。座敷の天井は、焼夷弾が天井で止まらないよう、全て取り外され、屋根裏を剥き出しの状態にして暮らしていた。現在、天井部分だけ年代が新しい座敷を見かけるのはそのためである。また、燈火管制下にあっては、町家の天窓もハッチ式に蓋ができるように開閉紐が付いていたそうである。 あの五山の送り火も燈火管制により、昭和18年〜20年は中止された。それでも市民は8月16日の早朝に白い布を持ち寄り、白い服を着て大文字の火床に集まり、 伝説の「白い大文字」を作ったという。 西陣地域に空襲があったのは、昭和20年6月26日のこと。午前9時半頃、B29の編隊が、智恵光院通りを上長者町通りから下立売通りにかけて爆弾を投下した。俗に言う「西陣空襲」である。死者負傷者109名、家屋全半壊155戸を出したこの空襲は東山の「馬町空襲」と並ぶ、京都の二大空襲として今もなお語り継がれている。防空壕もまた、戦時中の人々の苦しみを忘れない意味からも、伝えるべき京都の文化であると思うのである。 |
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