毎日新聞 2007年09月07日号


 
「京町家と床下防空壕」
現在、西陣・寺ノ内で工事中の京町家改修現場。来月には手焼き煎餅が楽しめるCafe「京西陣 菓匠 宗禅」としてオープンする予定である。解体工事を進めていくと、玄関を入ってすぐ右手の四帖半座敷の下から、きれいな形の防空壕=写真=が出現した。いままで、いろんな形で防空壕を見てきているが、こんなきれいな形での発見は、貴重である。幅110cm・長さ180cm 深さ150cm程の緩やかな逆台形のかたちに掘られた防空壕には、使用しやすいように階段部分も設けられ、当時、暮らしておられた、家族がしゃがんで身を寄せ合う空間として計画されている。実際、防空壕のなかに身を潜めると、上部で見ているよりは広く感じる。壁面は、土が剥き出しにはなっているものの、石垣のような模様が丁寧に掘られ、何となくひんやりとした印象を受ける。

床下防空壕は、主に昭和17年以降に建造され、空襲警報がなるとその中に逃げ込み、焼夷弾や爆風から身を守ったという。町家の外には、防火用水やバケツ・砂袋がおかれ、窓ガラスには紙テープがびっしりと貼られた、現在の町家外観からは想像もできない姿であったそう。座敷の天井は、焼夷弾が天井で止まらないよう、全て取り外され、屋根裏を剥き出しの状態にして暮らしていた。現在、天井部分だけ年代が新しい座敷を見かけるのはそのためである。また、燈火管制下にあっては、町家の天窓もハッチ式に蓋ができるように開閉紐が付いていたそうである。

あの五山の送り火も燈火管制により、昭和18年〜20年は中止された。それでも市民は8月16日の早朝に白い布を持ち寄り、白い服を着て大文字の火床に集まり、
伝説の「白い大文字」を作ったという。

西陣地域に空襲があったのは、昭和20年6月26日のこと。午前9時半頃、B29の編隊が、智恵光院通りを上長者町通りから下立売通りにかけて爆弾を投下した。俗に言う「西陣空襲」である。死者負傷者109名、家屋全半壊155戸を出したこの空襲は東山の「馬町空襲」と並ぶ、京都の二大空襲として今もなお語り継がれている。防空壕もまた、戦時中の人々の苦しみを忘れない意味からも、伝えるべき京都の文化であると思うのである。
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