毎日新聞 2007年01月26日号



「おかめと斗の悲しき物語」

 寺社仏閣を訪れると、よく柱の上に立方体のような形の組み合わせによる、逆コの字型の飾りを目にする。実はこの柱頭の装飾は、斗と呼ばれる、寺院の重い瓦屋根を支えるために考え出された、重力分散装置なのである。天平時代に考案された斗は時代と共に様々なスタイルを生み出し、以降鎌倉時代まで、発達を遂げていくのであるが、そんな斗にまつわる物語が上京区の千本釈迦堂(大報恩寺)に今もなお、伝えられている。

  千本釈迦堂は今から770余年前、鎌倉初期の安貞元(1227)年に藤原秀衡の孫、義空上人によって創建された。本堂は、応仁の乱の災禍も奇跡的に免れ、その後、享保の大火「西陣焼け」(1730)、天明の大火(1788)でも焼失を免れた。現在では京洛最古の仏堂遺構として国宝に指定されている。
  千本釈迦堂の本堂建立の折、総棟梁に選ばれたのが、当時、洛中洛外に名の聞こえた名棟梁高次である。そしてその妻の名は阿亀。名棟梁高次の指揮のもと、着々と造営工事は進んでいくが、高次は事もあろうに、内陣に建つ最も大事な信徒寄進の四天柱の一本を誤って、予定より短く切り落としてしまう。一世一代の大事業に取り返しの着かないミスをして途方に明け暮れる主人の姿を見て、妻の阿亀の一言。「いっそ斗をほどこせば」。短くしてしまった柱の頭に斗をつけてはどうかと進言したのだ。

  このアイデアで、安貞元年12月26日、厳粛な上棟式が行われ、今に見る端正な本堂は完成するのだが、妻の提言により大任を果たしたことが世間に知れてはと、阿亀は一切を秘したまま、上棟前に自刃をしてしまう。高次は上棟の日、亡き妻の面を扇御幣につけて飾り、阿亀の冥福と本堂の無事完成を祈ったとされる。
  写真は、千本釈迦堂の軒裏見上げ。柱の上部には一手先の出組斗がみえる。今もなお、京都では、上棟の日には、おかめの福面の扇御幣を使用し、建築成就と家内の安全と繁栄を祈念する風習が伝わっている。

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