毎日新聞 2007年01月12日号



「松花堂の小宇宙的空間」

江戸時代初期の寛永年間(1624-1644)は、日本文化にとっては実に成熟した時代であった。「桂離宮」や「二条城」「日光廟」といった建築物も建立され、あらゆる階層に優れた、日本文化が誕生した。その中でも、本阿弥光悦とならび「寛永の三筆」として活躍したのが松花堂昭乗である。書画のみならず、茶の湯や和歌にも秀で、数多くの文化人とも交流の深かった、松花堂昭乗は当時の文化人の中でも、特に異彩をはなつ人物であったといわれている。

石清水八幡宮の僧侶でもあった、昭乗は、寛永14年(1637)都に近い山城男山に、松花堂と称する庵をつくり隠居生活を始める。わずか一丈(約3m)四方という大きさの中に建てられたこの方丈の草堂は、さまざまな要素が複雑に組み合わされ、簡素な小さい草庵の形にありながら、華麗な書院を圧縮したような小宇宙的空間となっている。宝形造りの茅葺屋根の頭頂に宝珠を乗せ、入口に唐桟戸を吊ったスタイルは一見すると仏堂のようである。しかし内部構成は、座敷となる二畳の間を主体として、それにわずかの土間と勝手を備え、さらに土間にはくどが作られ、勝手には置水屋がある。座敷には床と袋棚と仏壇があり、可能な限り切り詰めた空間の中にあっても、、床があり、炉があり、仏壇があるというその構造は、「自ら薪をとり、湯を沸かし、茶を点て、仏に供え、人に施し、我のむ」と利休が教えた茶の湯の基本的な精神を、実践する最小限住宅として実によく考えられているのである。写真は、座敷と「くど」構え。松花堂の草庵こそ、昭乗の精神的・芸術的活動の集大成でもあり、彼の茶の湯を象徴する空間であるといえる。

また松花堂昭乗は田の字型農家の種子入れを小物入れとして愛用していた。そして昭和初期、「吉兆」創業者の湯木貞一がこの小物入れを改良し、料理を収めて世に広めたのが「松花堂弁当」のはじまりである。日常の用を、芸術にまで高めた松花堂。400年の時を超えて、今もなお、その風雅を現在に伝えている。

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