毎日新聞 2006年12月15日号 |
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「寛永のマルチ・アーティスト」 岩倉実相院が元々あった上京区実相院町には「本阿弥辻子(ほんあみのずし)」という小径が存在する。室町時代初期より、刀剣の三事(研ぎ・拭い・目利き)をもって世に重用された本阿弥家の屋敷があったことに由来する。 本阿弥家に江戸初期に書の世界で活躍した「寛永の三筆」の一人、本阿弥光悦が誕生したのは永禄元(1558)年のことであった。刀剣は鞘(さや)や鍔(つば)以外に、木工・金工・漆工・革細工・蒔絵・染色・螺鈿(らでん)等多彩な工芸技術の粋を集めて制作され、幼いころより家業を通じて、美に対する高い見識眼を身につけるようになる。 やがて、光悦は身につけた工芸知識を素養に、和歌や書の教養を反映した芸術作品を創り出し、俵屋宗達とも交流を深めていく。その後、光悦の高雅かつ芸術的な才能は多方面で開花し、茶道、蒔絵、陶芸、書など、多彩なジャンルで才能を発揮するようになった。 そんな光悦に、徳川家康から洛北鷹峯に広大な土地を与えられたのは、元和元(1615)年のことである。俗世や権力から離れた鷹峯の地に、彼は多くの金工・陶工・蒔絵師・画家等を集め、芸術に集中できる環境を整え、光悦芸術村を築き上げた。この地で風月を楽しみ、以降22年間、その生涯を閉じるまで、数多くの芸術作品を創出することになる。 平安朝から続く伝統文化を基本に再構成し、変幻自在にデザインを加えるその手法は、光悦流と呼ばれる、極めて大胆で独創的な技法を生み出した。後に光悦は、宗達と共に淋派の創始者となり、尾形光琳へとその精神は受け継がれていく。 写真は、鷹峯・光悦寺にある大虚庵茶席。周りを囲む竹垣は「光悦垣」と呼ばれ、彼の高い芸術性を現在に伝える大胆なデザイン。「本阿弥辻子」を通るたび、そんな寛永のマルチ・アーティストに思いを馳せるのである。 |
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