毎日新聞 2006年10月27日号



「京の幸せ通り道」

  延暦13(794)年、平安京に遷都するにあたり、桓武天皇が重視したのが、陰陽五行思想に基づく、四神相応という吉相であるといわれている。「玄武」「朱雀」「青龍」「白虎」の四神はそれぞれ、都の北・南・東・西を護る神獣として配置されている。長岡京では天変地異や暗殺、疫病、祟りが相次いだ。桓武天皇はそれらから逃れるために平安京に都を移すことにしたが、とりわけ、飛鳥時代の持統8(694)年に造られた藤原京以来、都の弱点だった玄武(北)を最重要と考えたと言われる。

  風水において、大地の気が流れるルートを”龍脈”という。山脈より流れ出すその姿は、うねうねと曲がりくねり、龍のようであるという。平安京の場合、都の北に連なる丹波山地より発せられた巨大な気は、貴船神社を通って、船岡山に集まる。桓武天皇は、紫野にある船岡山を玄武にたとえ、平安京の「原点」として、ここから南に太極殿、朱雀大路、羅城門などの都市計画を造った。この“龍脈”の発見により、藤原京以来100年間も続いた遷都の歴史に終止符が打たれ、千年の都、平安京が誕生した。

  龍脈をさらに見てみると、船岡山から御池通りの名前の由来ともなった神泉苑を目指して流れていく。船岡山と神泉苑を結ぶ龍脈をさらに延長すると、西本願寺と東本願寺の間を通り、現代の京都の玄関口、JR京都駅へといきあたる。よく見ると駅ビルには、烏丸小路、室町小路という二つの龍の通り道が計画されている。さらに、南東にたどると、龍谷大学があり、不思議なことに桓武天皇陵に到る。桓武天皇は晩年、何度も神泉苑へ通ったそうだ。太極殿の南に満々と水をたたえた池と周辺の緑に、自然と一体となって生きる風水の理想を感じていたのかもしれない。
 
  写真は、「旧花屋町のいえ」。東西本願寺間の龍脈上に位置する路地奥の町家は、風水を意識した設計となっている。焼杉板を背景に、白川砂と南天をあしらった一坪の坪庭を、家の中を幸せに包みこむための「気」の通り道として再整備。1200年の時を超えた先人の知恵は、現代においてもなお息づいている。
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