毎日新聞 2006年7月21日号



神仏とともに暮らす

祇園祭の始まりは平安時代にさかのぼる。水の都でもある京都は当時、洪水や疫病の被害に悩まされていた。この災いを鎮めるため、当時の日本の66県にあわせ、66本の高い木柱を建て神泉苑に詣でたのが、その始まりとされている。そんな、祇園祭の鉾町の一つ、下京区船鉾町の一角に「長江家」という京町家がある。

呉服卸商の街路として発展してきた新町通。内部の見世(ミセ)の間からべんがら格子越しに新町通をみると、少し陽炎のように揺らいだ感じにみえる。独特の揺らめきは「大正ガラス」とよばれる、製造技術の未発達だった大正時代のガラスによるものである。現在の素通しガラスにはない、何ともいえない情緒ある幻想的な風景が、独特の雰囲気を醸しだしている。

長江家は、文政5(1822)年に当地に移り、その後、蛤御門の変による京都大火で消失するも、慶応4(明治元、1868)年に再建された。間口7間、奥行30間、200坪余の敷地には、見世、玄関、台所、奥座敷、座敷庭と続く典型的な室町呉服卸商家の佇まいが現在にも伝えられている。

玄関の大戸をくぐると、頭上には水の神様「弁天さま」が祀られている。その横の見世の間は、神棚に、伏見のお稲荷さん、八坂さん、北野の天神さん、壬生寺の起きあがり(だるま)さんが。裏庭には祠があり、裏鬼門にあたる南西の方角は白川砂で清められている。写真は、走り庭の荒神棚。おくどさん(台所)の上の神棚は火の神「荒神」を祀る神聖な火の祭壇。お社の左右には、神が宿るといわれる荒神松を供え、福を招く三宝さん(布袋さん)を大小ずらりと並べ、阿多古神社(愛宕さん)の「火迺要愼(ひのようじん)」とかかれた火伏せのお札を貼り、台所の無事を祈る。火の用心・商売繁盛・家内安全を願うこころは、代々受け継がれてきた町衆の祈りでもある。

ご先祖様から伝えられた、仏を敬い、神を畏れ、そしてともに暮らす世界。現代人が忘れかけている大切なこころがここにはある。

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